Money Laundering
by TACHIBANA Akira
TOUR in HONG KONG
香港上海銀行(5)
少し離れたところで、土建屋夫婦が何事か小声で相談している。男が意を決したように秋生に近づくと、
「もう少し金を持ってきておるんですが、何で預金したらええんでしょうか?」
と訊ねた。これも、秋生が予想していたとおりだ。
「円預金にしておけば為替リスクがないかわりに、現在は金利もつきません。米ドル預金は、日本の銀行でドル預金するのと同じことです。3%程度の金利がつくかわりに、円高になれば元本を割る場合もあります。香港ドルは米ドルに1ドル=7.8香港ドルでペッグ(釘付け)されているので、為替リスクは米ドルと同じです。ただし金利は、97年のアジア通貨危機以降、米ドル預金よりも若干高くなっています。香港の銀行は利子所得に課税されないので、金利収入が目的なら、米ドルか香港ドルがいいんじゃないですか?」
日本国内の金融機関で外貨預金をすると、問答無用で、利子に対して20パーセントが源泉徴収課税される。海外の金融機関なら、こうした源泉徴収はない。したがって、同じ米ドル預金でも香港やアメリカ、オフショアの銀行を利用すればパフォーマンスは20パーセント高くなり、これが複利で増えていくと数年で大きな差がつく。しかも、このリターンは日本国に税金を納めないことから生まれるものだから、何のリスクもなければ努力もいらない。だからこそ、多少でも目端の利いた人間は、資産に課税されない海外の金融機関を利用して外貨預金をするのだ。
だが、土建屋夫婦は黙って顔を見合わせているだけだ。素人はみなそうだが、「元本を割る」という言葉に引っかかっているのだ。そこで秋生は、彼らの不安を解き放ってやる。
「いったん口座に入金してしまえばいつでも外貨に両替できますから、とりあえず全額を円口座に預金しておくという選択もあります」
二人はもはや秋生の完全なコントロール下に置かれているので、タイバーツだろうがシンガポールドルだろうが、どんな通貨に両替させることも可能だが、そんなことで遊んでいるほど暇ではない。
「なら、円で預けときます」
土建屋がほっとしたように言った。
「いくら入金しますか?」
秋生が訊くと、土建屋はショルダーバッグを肩からおろし、口を開けて中を見せた。帯封を巻いた100万円の束が四つ。二人は今回、500万円の現金を香港に持ち込んだというわけだ。外為法によれば、海外旅行にともなう現金の持出しや持込みは一人100万円までに制限されている。夫婦二人なら届出免除の現金持出しは200万円が限度だ。それ以上は、税関に資金の性質や使途を申告しなくてはならない。もちろん、土建屋夫婦が税関に「これから500万円を香港に持っていきます」と申告しているわけはない。当然、外為法違反だ。
とはいえ、土建屋夫婦が日本のどんな法律に違反していようが、秋生には何の関係もない。だいたいこの外為法規定はザル法で、500万円程度なら、たとえ運悪く見つかっても、「結婚記念に女房と香港で豪遊するんですわ」とでも言って申告してしまえばいいだけだ。税務署は、税金のとれない金には興味を持たない。トラブルになるのは、持ち出すのが裏金で、本人が税務調査の対象になっている場合だけだ。
秋生は素早く金額を確認すると、外為窓口の担当者を呼んで、「日本円で400万円を入金したいからカウントしてくれ」と依頼した。担当者は奥からもう一人会計係を呼んでくると、手分けして現金を数え始めた。香港上海銀行本店といえども日本円札の自動カウンターは持っていないので、手作業で数えなくてはならない。客の少ない午前中を選んでも、入金額が大きければ、この作業にとんでもない時間がかかる。秋生は、現金の確認作業を約五分と踏んだ。時計を見ると12時15分。急がないと時間がない。
「現金を数えている間、奥さんにATMの説明をしておきましょう」
そう言って、女をATMカウンターに案内する。
香港上海銀行のATM(図解)
「先ほど受け取った、PINの書かれた封筒を出してもらえますか?」
女がバッグから小さな四角形の紙を取り出し、「これでいいのか」という目で秋生を見た。
「封筒のミシン目を破ると中に6桁の数字が書いてあります。それが、キャッシュカードの暗証番号です。最初に、その番号を変更してもらいます。封筒をなくして暗証番号がわからなくなったというトラブルがずいぶんあるからです」
女は感心したように頷いている。
「絶対に忘れない6桁の番号はありますか?」
そう訊ねると、しばらく考えて、
「それなら、夫の生年月日にします」
と答えた。どうせ個人名義でも会社名義でも、すべてのキャッシュカードやクレジットカードの暗証番号を夫か自分の生年月日で統一しているのだろう。
キャッシュカードをATMに挿入すると、最初にPINの入力を要求される。ここで、封筒に書かれた番号を入力するとメニュー画面が現れる。そこから「PIN変更」を選択すれば、自由に暗証番号を変更することができる。女は疑いもせずに、秋生の見ている前で、暗証番号を夫の生年月日に変えた。
「ATMの使い方は日本とほぼ同じですが、普通預金と当座預金の振替ができるのと、入金のやり方が少し違います。まず、残高確認を押していただけますか?」
女が残高確認の実行キーを押すと、画面にふたつの口座番号が現れた。ひとつの口座残高は2万7000香港ドル、もうひとつは残高ゼロだ。
「ATMには、香港ドル口座の普通預金と当座預金の残高が表示されます。口座番号の末尾〈833〉が普通預金、〈001〉が当座預金です。現在、普通預金口座にしかお金は入っていません。では画面を戻して、100香港ドルを出金してみてください」
女が出金画面で普通預金口座を選択し、「100」と入力して実行キーを押すと、ATMから香港上海銀行の100ドル札が吐き出された。中央銀行の存在しない香港では他にスタンダード・チャータード銀行と中国銀行が発券した紙幣も流通しているが、当然、香港上海銀行のATMからは自行の紙幣しか出てこない。女は、ATMから取り出した100ドル札を見て、「まあっ」と驚いている。
「次は、この100ドルを入金してもらいます。入金画面を選んで、金額を入力してください」
女が入金画面で普通預金口座を選択し、同じく「100」と入力して実行キーを押すと、今度は一枚のレシートと空の封筒が出てきた。女はどうしたものかわからず、当惑した顔をしている。
「複数の紙幣が流通する香港では、ATMは日本のような自動入金システムになっていません。入金する場合は、この封筒に現金と入金金額の記載されたレシートを入れて封をし、ATMに放り込んでおきます。入金できるのは紙幣か小切手で最高20枚まで。コインは不可です。すべての封筒はその日のうちに回収され、中に入っているレシートと紙幣が付き合わされて、問題なければ翌日には記帳されます。入金した直後に口座残高に反映されるわけではありませんから、必ず控えを取っておいてください。帰国される直前に、余った香港ドル紙幣を空港のATMから入金しておけばいいでしょう」
女はまた「まあっ」という顔をして、いそいそと封筒に100ドル札とレシート入れ、封をした。
「それでは次に、普通預金口座から当座預金口座に2000香港ドルを振替えてみてください。これもやり方は簡単で、振替画面で振替元を普通預金口座、振替先を当座預金口座にして、金額を指定するだけです」
女が言われたとおりにすると、当座預金口座に2000の数字が表示された。女はみたび「まあっ」という顔をした。
ATMの説明を終える頃、土建屋が入金票を片手にやってきた。受取手数料一万円を引かれて、入金金額は399万円。これで土建屋夫婦は、日本から持ってきた500万円を全額無事に香港上海銀行の口座に入金したことになる。
秋生は二人を、もういちど応接スペースに連れて行った。
「では最後に、小切手の使い方をお教えしておきましょう。今回の謝礼は3万円のお約束ですが、日本円をいただいても仕方ないので、私宛に2000香港ドルの小切手を書いてください。それを私が銀行に持っていくと、翌日には当座預金口座から、先ほど振替えていただいた2000香港ドルが引落とされます」
秋生は女から香港上海銀行の小切手帳を受け取り、日付と金額、およびサインする場所を教えた。金額は英文と数字の2種類で記入する必要があるので、ここでもレターヘッドにスペルを書いてやる必要があった。小切手には宛先も必要だが、そこは空欄にしておいた。もちろん、偽名の「工藤秋生」では口座に入金できないからだ。
「会社名義の口座に入金したいので、宛先は書かなくてもいいです」
そう言うと、土建屋は何の疑問も持たず、指示に従った。
「これで手続きはすべて終りです。テレフォンバンキングとオンラインバンキングの方法はこのマニュアルにまとめてありますから、日本に帰ってから試してみてください。テレフォンバンキングは操作方法が面倒なので、できればインターネットを使ってください。アクセスに必要なPINは両方とも同一で、一週間以内に自宅に郵送されてくるはずです。キャッシュカードの暗証番号とは違いますから注意してください」
秋生はそう言って、ジャケットの内ポケットから自作のオンラインバンキング・マニュアルを取り出して土建屋に渡した。
「ついでに、日本国内のATMから香港ドル預金を日本円で出金する方法も書いてあります。今回預けた預金をどうしても引き出す必要が生じたら、外貨口座の資金を香港ドル口座に振替えてください。ただし、日本国内のATMでは一日の引出限度額が1万香港ドル相当、約15万円で、為替手数料とは別に出金手数料が25香港ドルかかりますから、緊急の場合以外は使わないほうがいいでしょう」
ここで、わざとらしく腕時計を見た。12時25分。ぎりぎりのタイミングだ。
秋生は長々と礼を言いたそうな土建屋夫婦を制して、「それではよいご旅行を」と笑顔で声をかけると、踵を返してエスカレーターを駆け下りた。
エスカレーターの中段あたりで振り返ると、二人が深々と頭を下げているのが見えた。